『「昔はよかった」病』パオロ・マッツァリーノ 新潮新書
昔は良かった。空が高く、空気が澄んでいた。家族が一緒に住み、隣近所の人とも家族の様だった。人情が溢れ、平和だった。色々な文脈で様々なノスタルジーが語られる。
◆日常と非日常
日々の日常に置き換えた時、それらの言葉は、どこまで真実足りうるだろうか。物事には良い面もあれば悪い面もある。それらの言葉は、ことさらに良い面を誇張していないだろうか。不便さ一つをとっても、一時の経験であれば貴重な楽しい経験となる。だけど、それが毎日続く日常の出来事となると、苦痛以外の何物でもないだろう。
古き良き、というのは、趣味の範囲でのみ成立するファンタジー
古き良きとは、多くの場合、そのことが日常ではなく非日常だからこそ言える言葉なんだろう。
◆相対比較での言い回し
「むかしはよかった」、「むかしは大変だった」。過去を賛美する表現は多い。起点を現在におき、過去に目を向ける。一見するともっともに聞こえることもある。でもそれって単なる後解釈じゃないだろうか。自分を、自分たちを相対比較で持ち上げようとする議論じゃないだろうか。しかも、その相対比較の目盛りは歪んでいて、過去の目盛りが大きくなっている。
「古き良き」と対になる常套句が、「むかしはよかった」。2500年前の孔子も口癖だった
◆絶対比較での言い回し
昭和30年代に未成年者が起こした犯罪は、殺人が現在の6.3倍、強盗が2.5倍。放火が5.7倍、暴行・傷害が3.7倍。強姦に至っては28倍。
反論することが目的ではない。とは言え、こんな数字は知らなかったし、結構衝撃的な数値だと思う。こんな数値を見て、昔は平和だったと言えるのだろうか。無知であることが、無責任な言葉を生む。
先達の功績や苦労は尊重したいけど、今を必死に生きていきたい。過去を振り返ってノスタルジーに浸るのではなく、今の生活に悩みたい。そしてできれば少しでも今日よりも明日が良い日になる様に、自分にできることをやっていきたい。更に欲を言えば、そんなことを肩肘張らず、当たり前の日常として日々を送りたい。
★★☆☆☆
いつか過去を振り返った時に、今が一番良いと言いたい。そんなことを言い続けられる様に生活したい。